【手の記憶】





 まだ、スモーカーと個人的な付き合いというのを始めたばかりの頃の事。
朝まで共に過ごすようになったとはいえ、互いに遠慮もあり、また互いの生活行動というのもちらほらと見えて興味を抱く時期。

 
 朝、洗面を終えてテーブルの席についたスモーカー。先に椅子に座っていたたしぎは少し照れも含めて「おはようございます」と声をかける。いつも職場での朝の挨拶とは違い、それは舌の上でふわりと甘く溶けそうな意味を持つ。それに「ああ」といつものように答えるスモーカーにとってはどうなのだろう?そんな当人以外にはどうでもいいような事を思いながら、たしぎはスモーカーの動きを眺めていた。

 ………──あれ?──、スモーカーの動きを見ているうちに何かがいつもと違うと違和感に気付いた。でも、どこが違うのかが分からない。じっと見てばかりいるのも失礼かと思い、甲斐甲斐しく朝食の支度を整える。

 普段、仕事中に食事を一緒に摂る時はたしぎがあれこれと話しかけ、スモーカーはそれに適当な相槌を返しながら食べている。内容は仕事関係が一番多い。昨晩の食事の時の光景も似たようなものだ。プライベートな時間に会っている気恥ずかしさはアルコールが入りどこかに吹き飛んでしまい、スモーカーも普段に比べれば饒舌気味で楽しい食事だったような記憶がある。それが朝というと昨晩の熱がどこか残っているようでしかしどこか妙に冷めた部分もあり照れ臭さも手伝い、やや無口。スモーカーはそう普段とは変わりがないのだが…。

 たしぎはフォークを口に運びながら、時折スモーカーの様子を伺う。そうすると改めてスモーカーのフォークの使い方や口元、手の動きに視線が吸い寄せられる。昨日だって一緒に食事をしているというのにこんなに落ち着いてスモーカーの仕草を見る事もそうはない。

 食事の動きが止まりがちなたしぎの視線にスモーカーも気付き、訝しそうな表情を浮かべる。

「何 じろじろ見てやがる?」
「あ、いえ…別に…」

 スモーカーを見ていたという事に本人に気付かれて、恥ずかしさから瞬時に頬に血が上る。火照った頬に当てた自分の手が気持ちいいほどだ。そうはいっても妙な違和感が気になり、たしぎ自信は努めて何でもない様子を装いつつもまだスモーカーの方に意識を向けている。

「だから何なんだ?俺の顔に何かついているのか?」

 たしぎの行動に訳の分からないスモーカーがコーヒーカップに口をつけては苛立ったような声でもう一度たしぎに聞くが、たしぎ自身もどこが違うのかが分からなくて悩んでいるのだ。

「すみません…」

 とりあえずはスモーカーの苛立った声には条件反射のように出てくる謝罪の言葉が自然と口か出る。それ以上は口ごもってしまうたしぎを見てはスモーカーが自分の顎に手をやり少し考えているようだ。─怒らせてしまったのか?─無言の様子にビクビクとしているとふと目がスモーカーの顔周りに気付く『顔に何かついているのか?』


──顔に何か…ついていないんだ…無精ひげが綺麗に剃られている──


「あっ!」
「……たしぎぃ?朝から本当にどうしたんだ?頭に来ちまったのか?」
「スモーカーさん、ひげが…」
「ひげがどうしたんだ?」
「いえ、ひげを剃ったスモーカーさんの様子が珍しくて…」
「あ?ああ、これか…」

 互いの行動の疑問点が解消されて、ようやく落ち着きを取り戻す朝の時間。食べ物が一体どこに入っていったのか分からないような朝食も終り、ソファでくつろぎながらコーヒーをそのまま飲み続ける。新聞を広げるスモーカーを見ながら、たしぎはふんわりとした甘いもので体が満たされているのを感じた。単純に好きな人と朝をゆっくりと過ごせる時間。職場では見る事のないスモーカーの表情。偉いさんが来るといくら言っても滅多に正装などしない、上半身は裸がポリシーなんじゃないかといういつもの格好。当然、ひげの方も適当だがどこまでも伸びているという事でもない。休みの日に剃っていたという事が分かったこの時。

 スモーカー自身も気になるのだろうか?顎から頬にかけて時折手を滑らせている。たしぎは自分もその頬に触れたいなぁと思うが、何と言えばいいのか?断りを入れてから触れるというのもどこか変かもと思案していると

「じろじろ見て変な奴」
そう言いながらスモーカーは少し離れて座っていたたしぎの肩を抱き寄せる。かけてくる言葉は悪いが、回された腕の重みと暖かさにほわほわと嬉しくなり、今はこれでいいかとスモーカーにそのままもたれ掛かるたしぎだった。






 ──休日の朝にひげを剃らなくなったのは何回目の朝を一緒に迎えた時だっただろう?10回目だったか…20回目だったか…──たしぎはペタリと床に腹ばいになりながら新聞を読み続けるスモーカーの方を見ながら付き合い始めの頃の事を思い出していた。

 同じ時間を一緒に過ごすにつれて互いの行動や癖が見えてきて、遠慮も次第に少なくなっていく。共に同じものを見て甘やかに過ごしたりじゃれ合う事もたまにはあるが、それぞれの時間というものも出てくる。同じ空間にいながら個の世界に没頭する。そういうものを大事にしながら過ごす休日に変わってきていた。

 スモーカーは先ほどからいくつか複数の新聞を広げて、また海軍本部から送られてきていた資料を読んでいた。世界情勢や何の変哲もない記事がどこからどう欲しい情報の手がかりに繋がっていくのか分からない。持っている情報は多い方がいいのだ。スモーカーの勘の良さもそういった知識欲に裏付けされた結果である事が多い。

 たしぎの方は海軍の資料も眺めて最新の情報を仕入れた後は雑誌などを見ていた。だが、夜も更けて明日からはまた仕事である。堂々と甘えていられる時間も間もなく終わる。スモーカーはいつまで、どこまで資料を読んでいるのだろう?そろそろ個の時間は飽きてきていた。

「スモーカーさん」
ソファに寄りかかりながら書類を読むスモーカーの脇の方からくぐり、たしぎはスモーカーの正面に潜り込む。

「あぁ 何だ?」
目の前に来たたしぎにチラリと視線を向けては、そのたしぎを片手に抱えてもう片方の手は書類を持ち直す。

「……まだ…ですか?」
「ん?ああ…もうちょっと待ってろ。ここまでは目を通しておきたい」
「……はい…」

 『待っていろ』と言われたら大人しく待つより他に方法は無い。スモーカーの腕の中で居心地がいいように少しもぞもぞ動き、身体を預けながら時を待つ。

 しばらくすると書類をテーブルの上に置き、一息つくように葉巻を燻らせるスモーカー。たしぎは体の向きをスモーカーの方に向けて座りなおす。

「……ざりざり」
たしぎの手がスモーカーの頬から顎にかけて手のひらで辿る。たしぎの掌から伝わってくる不精ひげの具合がいつもより格段に濃いのはそれまでの仕事の忙しさで休みもろくに取れなかったせいである。もちろんそういう時は二人の関係は上司と部下でありそれ以上の関係は無い。

「それがどうしたんだ?」
たしぎのその突飛な行動はいつもの事なので別段驚きはしないが、更に次の行動や言葉は予測できない。たしぎはまだスモーカーの頬のひげの辺りを撫でている。

「剃らないんですか?ひげ」
「……別に剃らないわけじゃないんだが…明日からまた仕事だしな…」
「そうですよ、明日から仕事ですし……私がスモーカーさんのひげ剃ってあげましょうか?」
「………。」

 たしぎの言葉には一種の不安を感じる。刃物の扱いや手入れは長けているとは言っても、人の顔を剃るという事には慣れていないはずだ。スモーカーはたしぎの好奇心の強い視線を交わしながら

「いや、遠慮しておく。自分で剃るからいらねぇ」
「危険だって顔していますよ。案外、上手かもしれませんよ」
「俺は予想通りの腕前だと思うぞ。何だ?そろそろ眠いのか?」
「……それもあります……」
「…分かった…自分で剃れるから手伝いはいらねぇ。ちょっと待ってろ」
「さっきからずっと待っています…」

 小さくあくびをしてはムニャムニャ言いながらたしぎはスモーカーの肩に頭を乗せる。たしぎはまだ「…ざりざり」と言ってはスモーカーの頬に手を当てる。待ちくたびれて少し拗ねているようなたしぎの表情と仕草に、スモーカーは少し放っておいた時間が長すぎたようだと気付く。
 
「もう寝るから、先にシャワーを浴びてこい」
「……はい…」





 スモーカーがベッドの所に来ると先にシャワーを浴びていたたしぎは眠りに落ちる寸前であった。身体を丸めて規則的な小さな呼吸音、眼鏡を外して伏せられた瞼は好奇心旺盛に表情も豊かにくるくると動く黒い瞳を隠している。律儀にベッドの端により、スモーカーの寝る場所をきちんと空けている。

 寝入っている彼女を起こさないようにそっと掛け物をめくり、たしぎが残しておいた空間に横たわる。ただ、あまりにもたしぎが端によっていて落ちそうな気がするので、その身体を抱え直して彼女がゆったりと眠れる場所を確保する。そっとしておこうと思ってはいたのだが、身体を動かす刺激でたしぎは眠そうな目を擦りながらゆっくりと目が開かれる。

「あ スモーカーさん…」
「疲れているんじゃねぇのか?もういいから寝ろ」
「は…い…」 

 たしぎが目を擦りながら頭を起こそうとするので、スモーカーが軽く頭を押さえるとそのままくたりと力が抜けてくる。半覚醒状態からの生返事。少し身動きしては寝心地がいいように体勢を直してからたしぎの手がスモーカーの顔の方に伸びてきた。

「すべすべ…剃ってきたんだ…」
「ああ、眠いんだろう、もう寝ろ」
「うん…すべすべ」
「今日はそればっかだな」

 スモーカーの頬の肌具合を確かめ、楽しむかのようにたしぎの手はまだ離れない。このまま手首でもつかんで剥がすと頬を寄せてきたり、たしぎの胸元に抱え込まれてそれこそ全身で「すべすべ」をやられかねない。寝とぼけているたしぎは自覚もないままにスモーカーを求め誘惑してくる。頬を撫でているだけなら安全には違いない。

「そうですね……スモーカーさんはどうして毎日剃らないんですか?」
「あ?ああ…面倒だしな……」
「すべすべのひげの無いスモーカーさんも若く見えて素敵なのに…前は休みの日の朝に剃っていましたよね、付き合い始めた頃は。今ではすっかり夜でしょう。本当はいつ剃っているのが本来の姿なんですか?」
「夜だ」

 たしぎの子供のような質問に、スモーカーは再びその身体を抱え直して寝物語のように話して聞かせる。どこか夢うつつのようなたしぎの声が押し付けられたスモーカーの胸のあたりから直接肌を通して体の中に響いてくる。スモーカーの静かな低い声もまた触れ合っている素肌を通して身体に直接響いてくるようだった。

「時間があって気が向いた時にしか剃らねぇからなあ…大体、休みの日が多いんだよ。それも夜にな…そんな事が結構多いから、ひげを剃るという事は次の日からまた仕事だと考えるんだよ。休みも終りだなとな」
「フフ それじゃあ、剃った後は溜息出ませんか?仕事か…って」
「俺はお前と違って仕事は嫌いじゃねぇんだよ」
「私だって仕事嫌いじゃありません…ね じゃあ何で最初の頃は朝だったんですか?」
「……一応だな」
「一応って何ですか?…スモーカーさんでもそういう気を使っていた時期があったんですね。いつでも自分のペースを崩さない方だと思っていました」

 スモーカー答えの少しの間にたしぎのクスクスという笑い声が入ってくる。

「お前だって、前は借りてきた猫のように大人しかったのに今となっては自分勝手で我侭ですぐ拗ねるむくれる、自由気侭もいいところじゃねぇか……」
「慣れたんですよ、スモーカーさんに。まあ、お休みの日はスモーカーさんが一番ひげの濃い時とすべすべの時の両方を楽しむ事ができるから、それはそれで別にいいんですけどね」

 ──今は簡単に手で確かめる事ができるようになったけど、そういえば付き合い始めた頃は触れる事ですら戸惑っていた。スモーカーさんも同じだったのか…な…?──朝に気を使ってひげを剃っていたらしい話を聞いてたしぎはその頃の互いに戸惑っていた気持ちをほんの少し懐かしく思った。

「そういえばですね……えっちの最中にひげを剃ったスモーカーさんに触れるとちょっと別の人としているみたいと思った事が何度か…」
「何だ?そりゃ?怖い事言ってるなぁ」
「怖いですか?思っただけですから。すべすべのスモーカーさんの顔が気持ちいいですから」
「……変な奴っていうのは最初の頃から相変わらずだよな」
「良く変わったところもあるでしょう?」
「…思い出せねぇ」
「じゃあ、思い出させてあげますね」

 また、柔らかな手がスモーカーの頬を撫でてその感触を楽しむように当てられる。今までたしぎに好きなようにさせていたスモーカーだったが、今度はその手を掴みそのままシーツに押し付けて緩く拘束する。

「そんなに好きなら、よおく味わってもらおうか」 

 捕まえる瞳と受け入れる瞳。
手のひらから伝わる熱も感触も最初の頃からそれはずっと変わらない。気持ちは少しずつ変化していくが深い所は変わらずに。



おわり


2003年の夏コミで出した本より
付き合い初めのどこか遠慮がちな時期と時間をかけてよく熟したような時期 どちらも捨てがたく
スモーカーの変化も可愛いものだと
2007.10.01